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かかわる全ての人を、主人公に。

宿命 PART.1

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どうも、AUNこと西祖です。

いきなりですが、僕は吃音者です。

僕の発信する情報を
受け取り続けてくれている人にとっては、

「なにをいまさら?」

というぐらい定番の話であり、
もはや共通認識となっている
僕の吃音ですが、もしこれを読んで

「吃音とはなんぞや?」

という場合は簡単にググってみてください。

 

・・・

 

長年僕を追いかけてくれている
人にとっては、もうここまでくると
吃音はAUNの特徴の一つになって
しまっているわけですが

(というか 自分で言いまくっているからなのですが笑)

今回は、吃音というものについて
これまで話してこなかったちょっと
「深い」話をしたいと思います。

最初に、吃音とは何かを軽く話してから
深く入っていこうと思いますが、
ウィキペディアとかで調べてから
読んでみるのもいいかもしれません。

…と言っても別に、
吃音をもっと多くの人に
知ってもらいたいとか
そんな話ではないです。

まあ、知らないよりは
知っておいた方がいいとは思いますが。

 

と言うのも、実は、吃音者というのは
世の中に100人に1人くらいの割合でいて、
あなたもこれまでの人生のどこかで
きっと出逢っていると思います。

大抵の吃音者は、自分が
吃音者であることをバレないように
振る舞う努力をしているので、
気づかないことがほとんどですが。

だから、知らないよりは知っておいた方が、
色んな意味でいいのかなぁと思うわけです。

が、今回はそこじゃなくて。

これから僕が長々とメルマガを
書こうとしているわけなので、
当然、 お勉強コンテンツとして成立させます。

僕のかつての最大の弱点であり
コンプレックスであった「吃音」
というものを切り口にして、
人生のプラスになるようなお話を提供するつもりです。

例えば、

・あらがえない”弱み”を持ってる人

・自分には才能も実力も備わっていないと葛藤したり絶望したりしてる人

こんな人への、力強いプラスの
メッセージになると思うので、
吃音自体に興味がなくても、
ぜひ最後まで読んでみてください。

 

吃音とは?

 

それで最初に「吃音とは何か?」
について少し説明します。

ここを知らないと話にならないので。

吃音は、傷病認定されているれっきとした病気です。

俗語でいうと「どもり」ですが、
一般的などもりの解釈は大概間違ってますね。

「ああああああありがとう、みたいな、
  同じ言葉を繰り返す癖みたいなもの」

こういう解釈をしてる人が
多いんですがこれは違います。

正しくは、
『特定の言葉が「発声できない」症状』
を持つ人が吃音者なんですね。

  • 「ありがとう」
  • 「こんにちは」
  • 「おはようございます」

毎日どこかで口にする言葉ですよね。

 

電話がかかってきた時には

「もしもし」

「お電話ありがとうございます」

「はい、○○(名前)です」

だと思います。

自己紹介の時には
「私は○○と申します!」
と自分の名前を言うと思うし、

仕事では「○○会社の〜」と、
勤め先の会社名を言うことも多いと思います。

これがまともに言えないのが吃音者なんですね。

 

「まともに言えない」というのは
たとえば、「ありがとう」と言おうとすると、
瞬間的に嫌な感情が湧き上がってきて

最初の「あ」

の言葉が発生できなくなってしまう。

まるで喉に鍵が掛かったように
言葉が出なくなってしまうわけです。

 

無理して発声しようとすると
息苦しくなり、酷いときは
軽い過呼吸状態に陥ってしまうこともあります。

この状態を、一般的に「どもる」と言い、
「ブロック状態」とも言ったりします。

「吃る」 これで「どもる」と書いたりもします。

全ての言葉に対してこうではなく、
例えば、名前とか会社名とか挨拶言葉とか、
日常的に使用する重要な言葉に限って、
苦手意識が強く働き発声できなくなる傾向にあります。

 

吃音者によって、
言えない言葉のレパートリーは
バラバラで個人差があり、

軽度の吃音者もいれば、
言葉の多くを失ってしまう重度の吃音者もいる。

一般的には「克服困難」な病気だといわれています。

吃音者は100人に1人だと言いましたが、
3〜5歳の急速に言葉を覚える時期において、
実に3割の子供がどもりを体験するというデータがあります。

多くてビックリなんですが、
ただ、 ここでのどもりは、
成熟した吃音者のそれではなく、

思考と言語のバランスが
取れていないことから起こる現象で、
そのほとんどは就学前に自然消滅します。

 

しかし、中にはそうじゃない子もいる。

性格だったり、環境だったり、
タイミングが悪かったりと、
様々な悪条件が重なることで、

「どもりを認識」できる年齢まで

どもりが消滅しないまま成長してしまうわけです。

物事がハッキリと認識できるようになる
就学時期にこの状態が構築されてしまうと、
もはやどもることへの認識を消すことは難しく、
そのような子のほとんどが、吃音者としての
一生を余儀なくされてしまうのが現状なんですね。

 

苦悩

 

『言いたい言葉が突然発声できなくなる。』

非吃音者にはピンと来ないと思いますが、
これはかなり辛く過酷な症状ですよ。

どれくらい辛くて過酷かと言うと、
僕は吃音を克服するための教材を販売していますが、
月に一人か二人くらいの人から、

「ちょ、もう、死にたいです」

こんな悲痛のメールが届くほど、です。

だって、ちょっと想像だけしてみてください。

 

例えばですね、学校では、
授業ごとに毎回出席確認があると思います。

担当の教師が名前を読んでそれに
「はい」と 答える儀式ですが、
なんてことはない、 名前を呼ばれたら
「はい」と答えればいいだけ。

なのに「はい」の言葉が詰まって出てこない。

無音状態です。

周囲の誰もが変だと思うわけです。

 

「???」と。

 

教師のほとんどが吃音に
関しては無知なので、訝しんだり、
中には生徒がふざけていると思って
怒り出す人も珍しくないです。

僕自身、中高と合わせて、
4人くらいの教師に怒られたことがあります。

「ふざけるな」と怒られてしまいました。

国語の時間の本読みを当てられるとか、
多感な時期の幼い吃音者にとっては地獄です。

子供はある意味残酷なので、
吃音者の子を平気でネタにしたり馬鹿にしたりします。

また、進学や就職時の面接なんかは、
吃音者にとってとんでもなく高いハードルです。

ハンデ以外のなんでもない。

言い出したらキリがないですね。

 

例えば、ピザの注文とか
店の予約とかまず無理。

名前が言えないから。

電話も最悪のツール。

かかってきて取っても、
「もしもし」が言えないから。

こういうのが日常なので、
大袈裟でもなんでもなく、
リアルに、胃に穴が開きます。

実際、吃音を苦にした
若い自殺者が毎年後を
絶たないのが現状なんです。

本当に、哀しい事だと思います。

 

原因…「見えない縄跳び」の存在

 

さっきから何度も
「100人に1人」と 言っていますが、
興味深いのは、 これが全世界共通だという事実です。

日本人だけの話ではなく、
世界中のどの国においても、
この割合で吃音者がいるという事実。

どんな文化、どんな言語の国でも、
100人に1人であるという
調査・研究結果がデータとしてあります。

 

原因は諸説あって、例えば、

「発語器官などの問題により
 起こる身体的な病気である」

とか、

「思い込みやトラウマなどが
 引き起こす精神的なものである」

とか、またはその両方であるとか。

吃音に関する研究は大昔から、
それこそ何百年も前からされていますが、
これといった原因は明確になっていません。

吃音者によって症状や特徴が
それぞれ微妙に異なるため、

また、理屈では 説明困難な症状が
見られたりするため、どんなに仮説を
立てても推測の域を出ないのです。

ただ、 自分自身の実体験や
他者の経験談を元にして、
独自に考察し続けてきた結果ですが、僕は、

吃音は”100%精神的な病”

だと結論付けています。

 

それを裏付ける理由は
色々とあるんですが、
わかり易い話を一つ挙げると、

『吃音者は、歌では決してどもらない』

という、これまた興味深い事実があるわけです。

 

さっきまでまともに
会話出来なかった人が、
カラオケで歌いだすと
まったくどもらずに歌いきってしまう。

不思議なんです。

「どゆこと?」ってよく説明を求められます。

これについては
本当に興味深い話で、また、
今回の話の核心に迫る部分でもあるので、
後から詳しく話します。

・・・

とにかく、
このように、吃音というのは
説明すればするほど
理解するのが難しい問題です。

基本的に、吃音者にしか
わからない問題なんです。

そこで、誰にでもわかりやすいように、
今からある想像をしてもらいます。

いいですか。

想像してみてください。

 

「縄跳び」

 

縄跳びってありますよね。

一人で遊ぶこともあれば、
複数で遊ぶこともある
あのロープを使った遊びです。

知らない人はいないと思います。

で、複数でやるやつを想像してください。

両端で人が縄を持ち、
グルグル回すやつです。

 

タイミングを合わせて
一人ずつ回る縄の中に
入っていくやつを想像してください。

いいですか。

入るタイミングを間違うと、
縄にひっかかってしまい流れを止めてしまいます。

転んでしまう場合もあります。

そうならないように、
冷静に、慎重にタイミングを図り、

「せーの……えいっ!」

で飛び込んでいくわけです。

運動神経にもよりますが、
大抵は、 慣れると何も考えずに
飛び込んでいけます。

ただ、慣れて上手になっても、
間が空くと感覚を取り戻すのに
また時間がかかると思います。

・・・

なんの話をしているかというと、
要するに「吃音」ってこれと同じなんですよ。

喋ろうとした瞬間、
ないはずの縄跳びが
突然目の前に現れるんです。

“縄跳びを飛べない=発声できない”

という状況に立たされるわけです。

 

冷静に、慎重に、
タイミングを計って発声しないと、
言葉が詰まってしまってブロック状態に
なってしまう(どもってしまう)。

上手に飛び込まないと、
ロープの回転を止めてしまう。

つまり、会話の流れを止めてしまうってことです。

 

何度も飛んで慣れてくれば、
何も考えずに失敗なく飛ぶことが
できるようになる。

つまり、連続で何本も電話を受けたり、
気持ち的にノリノリになってきたりすると、
比較的にどもらず、スラスラと喋ることが
できるようになるってこと。

しかし、時間が空くとまた元に戻ってしまう。

最悪、ロープにひっかかり
派手に転んで大恥かいてしまいます。

吃音で言うと、場面によっては、
そしてどもり方によっては、
立ち直れないほどの心の傷を負ってしまうということです。

それが怖くて、ほとんど吃音者は、
「縄跳びに参加しない」という選択をします。

出来るだけ会話に入らないようにする、
出来るだけ自分が喋らなくてもいいような
状態を作ろうとする。

また、面接難易度の高い職場を避けたり、
社交の場や交際を避けてしまったりする。

つまり、コミュニケーションを
放棄する方向に行ってしまうわけです。

これはつまり、 チャレンジを
避けて通るようになるということと
イコールだと言えます。

そういうことが日常になってしまうので、
いつまで経っても縄跳びは上達しないし、
そればかりか、苦手意識が増大してしまい、
余計に飛べなくなってしまう。

しかも、その縄跳びは
多くの吃音者にとって、
現実の縄跳びの何倍、何十倍もの
難易度であることがほとんどなんですね。

まあ、その時の精神状態によって上下はしますが。

 

克服とは?

 

「一般的には、吃音は克服困難」

ということを前述しましたが、
これは吃音者の宿命を背負ってしまった者に
とっては絶望的な話で、 一度見えてしまった
縄跳びが視界から消えることは

「一生ない」

ということです。

吃音に関しては、

「消失する」

という意味での克服は不可能です。

 

ただ、僕自身 「俺は既に吃音を克服している」
と言っているし、 実際に吃音の克服教材を
出しているくらいです。

どういうことか?

僕の場合、「克服」の定義が他と違うんですね。

僕の「克服」の定義は、「症状の消失」ではありません。

 

「問題を踏まえて乗り越える」

ということを、克服だと定義しているわけです。

 

これについては、関連して
物凄く大切な事を伝えたいので
また後から詳しく話していきます。

とりあえず、「そういうものなんだ」
とここでは理解して読み進めてもらうとして。

「いくら僕が問題を踏まえて乗り越えるんだ」

というような正論を言ったとしても、
今まさに苦しめられている吃音者に
それを理解してもらうことはだいぶ難しいわけです。

頭で解らせても、
気持ちはどうしても納得できない。

吃音者が非吃音者に戻ることはできません。

これが現実であり、
どうしても変えられないことです。

吃音という道は、
一度踏み入れてしまうと、
もう二度と引き返せない道なんですね。

だったらその道の正しい歩き方を覚えて欲しい、
という話になってくるんですが、、これがなかなか、
一筋縄ではいかない。

  • 羞恥心
  • 孤独感
  • 不安感
  • 恐怖感

こういった感情が
普段から同時多発的に
生まれていて

精神的葛藤が
日常化している状態では、
問題と冷静に向き合うことは難しいです。

そんな中、

  • 「ポジティブシンキング」でも
  • 「開き直り」でも
  • 「仲間の存在」でも
  • 「知識や情報」でも何でもいい、

何でもいいんですが、どうにかして
どこかの時点で”光”を見い出せれば、
症状を軽減させることは十分に可能です。

 

また、年齢を重ねるに連れ、
苦しみも、葛藤も、あらゆる感情や
出来事をニュートラルな視点で冷静に
見ることができるようになり、
吃音との付き合い方が上手になる人も多いです。

悟りの境地みたいな所に
行ってしまう人もいます。

 

しかし一方で、どこかの時点で
闇に飲まれてしまう吃音者もいます。

そうなると、
本当に困難な人生を余儀なくされてしまう。

能力の問題ではなく、これは本当に、
タイミングや運の問題と言わざるを得ません。

記憶喪失にでもなれば、
吃音もろとも忘れてしまう可能性は高いですが、
記憶喪失自体が重大な問題なので話にならないですね。

それはともかくとしても、
そもそも吃音者になってしまったのには
根本的な原因があるわけです。

そういう”資質”を持っていたのです。

吃音者でなくても、
性格や環境など様々な条件から
発動する精神的な不具合が、
身体のどこかに症状として現れることは
珍しくありません。

例えば、

  • 精神的不具合が「耳」に現れ、
    難聴になる資質を持っている人がいるように、
  • 便秘になってしまう人がいるように、
  • 口臭が気になる人がいるように、
  • 痔になってしまう人がいるように、
  • 何かのアレルギーになってしまう人がいるように、
  • 吃音者は、それが「言葉」に現れる資質を持っていたという話です。

たとえ記憶喪失になっても、遅かれ早かれ、
また何かの出来事をキッカケにして、
普通では見えない縄跳びが見えてしまうようになります。

だからこそ、

 

“問題を踏まえて乗り越える”

 

という、克服の定義を理解することが重要なんですね。

 

・・・ さて。

 

もう気づいている人もいると思いますが、
ここまで吃音の話をしているようで実は、
どんな問題にも応用できる考え方の話、
高度なマインドセットの話に突入しつつあります。

まだまだ抽象的ですが。

で、勘違いしてほしくないのですが、
別に、過去の不幸自慢をしているわけではないし、

「俺はこんな大きな問題を乗り越えたんだぞ」

とか言いたいわけではありません(苦笑)。

 

個人的には、吃音はだいぶキツくて
ゴツい問題だと思いますが、 上には上がいますからね。

不幸・不遇自慢では
足元にも及ばない人たちが、
知人・友人に何人もいます。

彼らに言わせれば、僕の吃音なんて
屁のツッパリにもならんわけです(笑)。

だから、自慢とか
そんなくだらない話ではない
ということはわかってください。

誰でも、大なり小なり人に
言えない悩みの一つくらい持ってるでしょう。

誰でも、大なり小なり、 人に言えない
「見えないロープ」の存在があると思います。

みんな、何かしら悩んでるし苦しんでる。

だから、そういう人たちにとっての、
何か力強い、心強い解決のヒントに
なればいいなと思って話をしています。

あなたにしか見えないロープはなんでしょうか?

そんなことを思いながら、
この先を読んでみてください。

・・・

 

んでね。

僕は吃音者なので、今も、当たり前に、
この縄跳びが見え隠れしてるわけです。

僕と会話した事のある人は全員、
ちょっと思い出しみてほしいんですが、
あなたと会話しているときも僕は常に、
あなたには見えない縄跳びを飛んでいたわけです。

……とか言われたら
変な感じがすると思うんですが(笑)
本当ですから。

もう30年近く吃音者をやっていると、
変な話ですが、吃音のプロになってしまいます。

  • 「あ、この言葉のチョイスはよくないな」
  • 「どもるリスクが高いな」

という予期不安が瞬間的に発動し、
つまりここで認識が働き、それが吃音を招く、
結果、自分の首を絞めることになる、と。

こういうロジックが働いてるわけですが、
生きてる時間が長くなるに連れて、
その精度は年々上がってくるんですね。

縄跳びがよぉく見えるようになってくるわけです。

 

ただ、一方で、見えた縄跳びの
飛び方も上達してきます。

こっちの方もプロになってくるわけです。

ただしこっちは、勇気の要るチャレンジを
人生に果敢に取り入れてきた者だけが
許される領域になりますが。

僕の場合、「吃音縄跳び」の
飛び方を究極に上達させた、
プロ中のプロというわけです。

今となっては、ですが。

かつては、他の吃音者同様、
僕にとっても この縄跳びを
飛ぶことはとても難儀でした。

ほんの一時期ですが、
電話に限ってはほぼ発声不可能
という事態にまで陥ったことがあります。

そこから、紆余曲折を経て今に至るわけです。

「縄跳び」に喩えていますが、
実際に頭の中で何が起こっているかというと、
会話中、どこかの時点において

 

「苦手キーワード」

 

に遭遇します。

僕の場合、「サ行」や「タ行」に苦手を持っています。

遭遇頻度は、
喋る時間の長さに比例し、
精神状態にも左右されます。

遭遇した瞬間、
“プロ”である僕の頭の中では、
それへの対処作業が首尾よく行われるわけです。

 

主に、

●言い換え言葉の
 選定→決定→実行(発声)
 
(例.ありがとうございます→感謝してます)

●すらりと発声できる
 ベストなタイミングや 間、
 ボディランゲージのチョイス

(要するに「せーの……ジャンプッ!」のタイミング)

この2つのいずれか、
または両方を行っています。

 

よくわからないと思います。

例えば、僕とあなたが会話しているとします。

会話の流れで、

「そうですか、わかりました。 じゃあその話はまた今度。」

と僕が言いたかったとします。

 

しかしその瞬間、

「んー『わかりました』って言葉はちょっと微妙だな」

という予期不安が発動します。

 

つまり、「わかりました」
は言えないかもしれない、
ということを意識するのです。

 

ここまでは吃音者全員同じです。

そして、多くの吃音者は
それにやられて無音状態になり、
おかしな空気が流れてしまいます。

しかし上手な人ほど、瞬間的に
「じゃあここは『わかりました』ではなく、
『了解です』に置き換えよう」 となり、

実際に、「そうですか、了解です。」
と言って会話を成立させます。

さらに、その後に続く言葉、
「〜じゃあその話はまた今度」
これにも予期不安が働くとなると、すかさず

「そうですか、了解です。“ ”じゃあその話はまた今度」

と、難なく乗り切ります。

 

“ ”

↑この超刹那的な時間に
何が起こっているかというと、
心を整えたり、次の言葉が
スラっと出てくるような
絶妙な間が作られたりしています。

時間にして一瞬。

認識できないほどの一瞬です。

1秒かかってないです。

 

だって、ほとんどの場面において、
自然で違和感の少ない会話を
成立させているわけだから、

1秒の何分の1、 何十分の1
という時間の中でそれは行われているはずなのです。

まあ、要は「慣れ」なのですが、
喋ってる間ほぼこの状態なので、割と疲れます。

おそらく、普通の人よりも
だいぶ疲れると思います。

何時間ものセミナーやコンサルの後というのは
相当な疲労感で、おそらくここが一番、
忘れ物や物忘れが多くなるタイミングですね(笑)。

調子がいい時はそうでもないですが、
コンディションによってはかなり疲弊します。

 

宿命に生まれ、運命に挑み、使命に燃える

 

では先程話した「克服の定義」
に注目していきましょう。

吃音克服の定義は「症状の消失」 ではない。
「問題を踏まえて乗り越える」 ことである。

と話しました。

これは、誰もが持つであろう
“決してあらがえない問題”
すべてに当てはめて考えられることです。

逆に「あらがえる問題」とは何かというと、
ここでは「努力して解決できる問題」のことを
そう定義したいと思います。

例えば、

  • 収入
  • 職業
  • 資格
  • 居住地
  • 時間管理
  • 体調(健康)管理
  • 禁煙
  • 自信

等々、「今の」あなたの努力次第で
解決する可能性がたぶんにあるもの、
いくらでもコントロール可能なものです。

こういうものに関しては、
あえてここで言うことはありません。

いいからつべこべ言わずさっさとやれ。

…ってかんじなわけです。

 

それはともあれ、考えてみてください。

あなたは、どんなあらがえない問題
(消失させることができないもの、
変えられないもの)を持っているでしょうか?

何があなたのチャレンジを、チャンスを、
行動を、やる気を、自信を、満足を、充足を、
安息を、幸福を、豊かさを制限しているでしょうか?

あなたにしか見えない「心の縄跳び」はなんでしょうか?

 

『気に入っていない見た目』  
例)顔の造形、背丈、その他身体局所の造形、etc…

『吃音と比較的類似している精神的な病』  
例)強迫性障害、アスペルガー症候群、うつ病、パニック障害、ADHD(注意欠乏多動性障害)、etc…  
※ちなみにAUNは「軽いADHD」だと診断されたことがあります(苦笑)。

 

  • 『過去の失敗の記憶、トラウマ』
  • 『生まれ育った環境・家族問題』
  • 『男に生まれたこと、あるいは女に生まれたこと』
  • 『年齢』
  • 『死への恐怖』

……人それぞれだと思いますが、
これらは要するに『宿命』です。

「宿る命」と書いて宿命と読めるわけですが、
これは、生まれつき宿っている命という意味です。

 

その人が生きていく上での「前提」となっているもの。

基本的に「変えられない」もの。

自ら「コントロールできない」もの。

 

人は皆、年齢にはあらがえません。

生まれてきた瞬間「死」の宿命を背負っています。

 

僕が男に生まれてきたことは宿命。

日本人に生まれてきたことも宿命。

人間として生まれてきたことも宿命。

そして、吃音者として生涯生きていくことも宿命。

背負った宿命を前提として生きるのが自然なわけです。

 

だから、宿命に逆らった
生き方や考え方というのは、
良いか悪いかは別問題として、

自然ではないことによって
どこかで必ず歪や摩擦が生まれ、
大きくの場合、それは 苦しみとなって
自分に降りかかってくるわけです。

話を戻しますが、
個人的に「問題」であると
認識してしまった負の宿命は、
あらがうことができない問題として、

“踏まえて乗り越える”

しかないと言ってます。

 

視界から消すことはできないのだから。

「努力をするな、頑張るな、諦めろ。」

と言ってるのではなく、

 

「視界から消す努力を
するんじゃなくて、問題を受け入れ、
それを踏まえ、乗り越える努力をしてほしい。

それがきわめて自然であり、
結果として自分自身救われるんじゃないか。」

と言ってるんです。

 

踏まえて乗り越えたときはじめて、
「負」であった宿命をプラスに
生かすことができるようになるわけです。

僕が尊敬する一人である
故マイケル・ジャクソンは、
コントロールできない宿命に
あらがい続けた結果、

それについては
生涯を終えるその時まで、
僕の定義でいうところの”克服”は叶いませんでした。

(あくまで僕の個人的な考察なので異論反論はナシで。)

彼には才能があったと思います。

そして、並外れた努力家であったとも思います。

その結果、彼は多くの愛を手に入れ、
多くの価値を残し、そして多くの人々に囲まれ、
この世を去って行きました。

 

一方で、歓迎し難い波乱万丈を
必要以上に招いてしまったともいえる
彼の人生は、 特定の宿命にあらがい続けたこと
が起因しているように感じずにはいられません。

彼は、自分の宿命の一つを
どうしても受け入れることが、
認めることができませんでした。

その宿命に長い年月あらがい続けました。

コントロールする努力をし続けました。

 

そのエネルギーや
バイタリティは尊敬に値するし、
結果としてそれは様々な価値を
生み出したかもしれないけれど、

向けた矛先そのものは決して正解だとは
言えなかったんじゃないでしょうか。

そのため彼は、表面上を変えることは
できたかもしれないけど、克服する
(踏まえて乗り越える)ことはできないままに
生涯を終えたんじゃないでしょうか。

 

・・・

 

自分の意志で
変えることができるのは、
創っていくことができるのは、
宿命ではなく『運命』の方だと思っています。

「運ぶ命」と書いて
“運命”と読むわけですが、
これは、自分のチカラで物事を運び、
動かし、 結果を創造していくことが
可能だという意味であると僕は捉えています。

自分の命をどう運んでいくかは、
自分自身の意思で決めることができる。

自分でコントロールすることができる。

どんな人と出逢い、どんな経験をし、
どんな場所へ行き、どんな仕事をし、
どんな人格を形成していくか… は、
そいつの運命次第だってことです。

 

例えば、僕があなたにこうして
メッセージを届けられているのは運命です。

僕が積極的に自分のチカラを磨き、
あなたにメッセージを届けられるような
行動をしたから、今この運命に至っているわけです。

逆に、あなたが今
僕のメッセージを読んでいるのも、
あなたが向上心を持ち、 積極的に
自分を変えようとしたからこその運命なんですね。

読むのをやめようと思えば、
いつだってワンクリックでやめられる。

でも、今のところそうはせずに、
「読む」という行動を続けてる。

そういう行動を取り続けることで、
あなたの人格は形成されていき、
いろんな経験や出逢いや価値を手に入れることができる。

これは紛れもない運命ですよ。

 

自分に誇れる運命を
創っていくことにフォーカスしてほしいと思います。

そのためには、宿命を受け入れ認めることが、
第一のステップとして不可欠だと思うのです。

自分が背負った宿命の中に、
「これは問題」だと思えるものがあるのなら、
何度も言いますが、

それを消そうとするのではなく、
「踏まえて乗り越える」努力をしてほしいと思います。

・・・

僕の大好きな言葉でこういうものがあります。

 

『宿命に生まれ、運命に挑み、使命に燃える』

 

これは、元総理大臣の小渕恵三氏が
言った言葉ですが、最初にこの言葉を受けたとき、
物凄いパワーが自分の中から湧き上がってくるのを感じました。

その時は、何が何だかわからなかった。

それが何なのかわかりませんでした。

でも、多少自分の想いを
言語化できるようになった
今ならだいぶわかります。

これはきっと、これから僕が何年も、
何十年もかけてやっと、自ら到達できる
ステージの言葉だったんじゃないかと思っています。

今の僕にはまだまだですが。

 

  1. 「宿命」とは、宿る命。
    生きる上での前提であり、変えられないもの。

  2. 「運命」とは、運ぶ命。
    自分の意思や行動で創られるもの。

  3. 「使命」とは、使う命。
    自分で自分に与えた重大な任務。

 

宿命を受け入れ認めた上で、
運命を創る覚悟を決め努力し、
その営みの中で自分の使命を知る。

『宿命に生まれ、運命に挑み、使命に燃える』

まさにこれだな、と。

余談ついでにシェアしておきますが、
自分の信じる「美しさ」に共感してくれる人を
多く巻き込む努力をすること。

さらに、彼らと共に成長し続けていくこと。

そして、そのプロセスの中で、
成功や豊かさを一緒に手に入れていくこと。

これが、今の僕の使命(mission)だと思っています。

 

>>>宿命 PART.2はこちらから

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