ここにコメントを入れられる

かかわる全ての人を、主人公に。

死と、優しさと、今ここ

アバター
WRITER
 
この記事を書いている人 - WRITER -
アバター

From:AUN
20◯◯年◯月◯日
福岡、自宅の書斎より……

 

どうも、AUNこと西祖です。

この記事を読んでもらうに辺り、
以下の動画を少しでもご覧いだたけると
話がググッと入りやすくなります。

では、どうぞ。

映像を見てくれたのなら、
彼がどんな男かということは
ある程度わかったと思いますが、
僕の口から軽く紹介すると・・・

 

13歳の夏。地元高知県の、
台風が過ぎ去った翌日の海で
ダイブして遊んでいたところ、

海が濁っていて姿が見えなかった
テトラポッドに頭から直撃し、
病院に緊急搬送されました。

奇跡的に命拾いこそはしましたが、
「頚椎損傷」という大怪我を負い、
身体機能の実に7割を失ってしまいました。

 

・・・ここまで聞くと、
ただの自業自得の大馬鹿野郎です
(実は、この大怪我をする昨年にも、
同じ事故で病院送りになっていたりします)。

しかし、彼が「天才」と言われる所以は、
ここから後の快進撃にあります。

身体機能を失ってから後、
彼は17歳でネット起業し、
初年度でいきなり1億円を稼いでしまったのです。

 

17歳の少年が、たった一人で、口に咥えた割り箸一本で

 

です。

彼は現在27歳ですが、
起業してから10年間、
毎年「億」と言う金額を稼ぎ続けていて、
コンテンツビジネスの世界ではレジェンド的な存在です。

僕よりも8つくらい年下ですが、
僕にとって彼はクッソ生意気なガキ
であると同時に、今の僕のビジネスの根幹としてある

「ダイレクト・レスポンス・マーケティング(通称DRM)」

の先生だったりします。

 

「人間」や「人生」は、
師匠やメンターから学びましたが、
DRMというマーケティング手法を
オンラインに活用した
インターネットビジネスの基本は、
ほぼ彼から学びました

(言っても、1万円の教材買って、
後は彼のビジネスを独自に研究していただけですが苦笑)

紆余曲折あり、今では彼は、
僕の大切な友人の一人であり、
ビジネスパートナーでもあります。

そんな彼と、現在共に運営している

「邪!!男塾」

というコミュニティがあるのですが
(なんだそのネーミングは、
 というツッコミは受け付けません)

その活動の中で、
最近になって個人的に密かに
得た物凄く重要な学びがありました。

これを読んでいる人の
現在の状況や環境は様々だと思いますが、
この話を聞けば、多くの人が
もっと真剣に生きようと思うはずだし、

「真剣に生きる」

という事の意味もわかるんじゃないかと思い、
この記事を書くことにしました。

多くの人は、
この視点が無いために、
無駄に時間を浪費したり、
無駄な苦悩に苛まれたりしているのだと思うので、
是非最後までお付き合い下さい。

 

和佐大輔という男

 

これからする話を理解してもらうには、
わざわざ改めて紹介した和佐大輔という人間の

“性格的特徴”と
“彼が生きている現実”を

少しだけ知ってもらう必要があります。

 

先ず、第一印象として多くの人が彼に抱くのは、

「無機質」

この一言に尽きるんじゃないかと思います。

 

基本的に、
どんな状況でも、
どんな人と対峙しても、
感情を動かす素振りを見せません。

誰が見ても、
酷く冷静に見えてしまうのです。

そんな風に見えてしまう原因は、
天性レベルの「天邪鬼」「負けず嫌い」
「プライドが高い」「人見知り」
といった性格からくる独特のポーカーフェイス。

はじめて彼と対峙した人や、
彼の事をまだあまり知らない人は大抵、

「こいつは感情がないんじゃないか?」

「なんなんだこいつの態度は?」

・・・くらいのことを感じてしまうものです
(最近はだいぶ丸くなりましたが)。

 

だけどそれはちょっと勘違いで、彼は、

「嬉しい」とか
「楽(愉)しい」とか
「悲(哀)しい」とか
「寂しい」とか
「ムカつく」とか、

そういう感情は普通に持っているし、
最低限の礼儀もわきまえています。

感情という部分に焦点を当てれば、
もしかすると彼は、ある意味で人一倍

「情深い」

と言えるかもしれない。

 

しかし普段は、直接的に感情を
見せることはあまりしないわけです。

ドキュメンタリーの中では、
彼の「人間味」に焦点が当たっていたので、
そうは感じられなかったかもしれません。

前向きで、
行動力があって、
笑顔がステキなナイスガイだ、と。

 

そんな風に思ったかもしれませんが、
その印象のまま初対面で
フレンドリーに接したりすると、
大抵の人はポキッと心が折れてしまいます。苦笑

彼は、物凄く冷静に人を観ています。

一切の感情を排除して、
その人の人物像やダークサイドを
瞬時に見抜いてしまうようなところがあります。

色んな意味で、彼の前では、一切の言い訳が通用しません。

「人一倍情深い」

ということを言いましたが、
言わばそれは、「感情」というものを
人一倍理解しているということであり、

もっと言えば、

感情の扱い方を知っている

ということでもあります。

 

その扱い方の一例として、
「感情を排除して人を観る」
という一種の感情コントロールスキルを備えているわけです。

言い方を変えると、
彼は、相対的に見て、完璧に近いほど

“ニュートラル”な視点で人間や世界を見ている

んですね。

 

「なんでそういうスタイルなの?」
と疑問に思うかもしれませんが、
僕自身の「人間の見方」が彼と通ずるものがあるため、
なんとなくですがわかる気がします。

 

常に本質から外れないため

 

だと思います。

(彼の場合、もしかすると
ただ「性格が悪いだけ」なのかもしれないですが、
僕はそうじゃないと信じています笑)。

 

ボクらは、他人の人生に
「ダイレクトに」影響を与える仕事をしています。

企画一つ、教材一つ、メルマガ一つで
人生が変わってしまう人が実際にいるのです。

「人を巻き込んでいる」
という感覚をダイレクトに
浴びながら日々を送っているわけです。

 

それなので、常に、

本質という名のいつも正しい道

から外れることが許されません。

 

ボクらが本質からズレた動きを
してしまうということは、

僕と、僕のメッセージを
真剣に受け取ってくれている人との、
お互いの不幸の始まりを意味する。

・・・

正直、このくらいの意識で
僕はこの仕事をやっているし、
たぶん彼も同じなんじゃないかと思うのです。

どんな時でも、
問題の本質から外れてしまう事は
避けたいと思っています。

そのためには、
(特に人と対峙する時には)
“みずもの”である感情を無駄に
介入させてはいけないと思っているのです。

素直に、誠実に、明るく元気に人と接する。

こういう事はいわずもがな大事ですが、
その一方で、感情を排除した冷静な自分を
どこかに持っているということ。

自分が正しいと思う道を示し続けるには、
この視点がとても重要だと考えているのです。

 

話を戻しますが、
まあ、和佐大輔の場合、
その独特過ぎる冷静さ故に、

それが「人間味を感じさせない」要素
になってしまっているのだと、
僕的にはこのように分析しています。

彼の性格については、
他にも言いたい事やクソったれな
エピソードなんかが山ほどあるのですが(苦笑)
まあ、性格的な話はこのくらいにしておきます。

 

和佐大輔が生きている現実

 

彼と普通の人との違いを
挙げ出すとキリがないのですが、

“普通の人よりも死ぬ確率が高い”

これを、ここでの
重要な要素として挙げたいと思います。

 

実に、体の7割以上の機能が
失われているわけです。

いつ何が起こってもおかしくない状況だと思います。

また、彼は普段からあらゆる場所に
無防備の車椅子で移動していますが、
あらゆる場面で、引っ越しの時の
冷蔵庫みたいな運ばれ方を余儀なくされています。

いつ事故が起きて死ぬかもしれない。

それが、彼が生きているリアルな現実です。

 

長かった病院生活の時間の中で、
自分と同じかそれ以上に重度の障害を
負った人間が簡単に死んでしまう現実も見てきた。

そんな、いつも死と隣り合わせで
生きている彼は、いつも「死」や「生」
について想いを馳せているように感じます。

 

ついでに言うと、
経験・体験できる事が限られているからこそ、
普通の人が感じ取ることが出来ないような、
あっさりスルーしてしまうような、
きわめて重要で本質的な”真理”に気づくことができます。

また、自分が、「生きてる」
それだけで人に迷惑をかける存在だと
自覚しているからこそ、

それを差し引いて有り余る程の
価値を世の中にバラ撒いてやろう
という気概を維持し続ける事ができるのだと思います。

「俺はこれくらいの価値を提供しているんだ。
 だからお前らはこれくらい喜んでやれ」

くらいの割り切り感、開き直り感が、
あの高いセルフイメージに繋がっているんじゃないかと、
僕はそう見ています。

とにかく、彼はいつも

 

「死」を意識

 

しているように思えてなりません。

いつ死ぬかなんてわからないし、
痛いのも苦しいのも嫌だろうけど、
「どんな風に死にたいか」という
“死に様”を強く意識しているのが、
彼の態度や在り方を見ていて感じるのです。

また、死を想うからこそ、
「”生”とは何か」を前向きに想う
気持ちがセットでそこに在ることも。

 

そんな彼から発せられる言葉は、
残酷なほど現実的で本質的です。

人が無意識に見たくないと思うモノ、
でも本当は目を背けてはいけないモノに、
容赦なく、ダイレクトにアクセスしてきます。

それはコンサルやセミナー、
懇親会など、あらゆるシーンで
見られる光景ですが、それは時に冷酷で、
時に絶望すら感じさせるほどのものです。

 

その言葉の重圧に
耐えられない人もいると思うし、
スグには受け入れる事が出来ない人もいると思います。

委縮してしまう人も少なくないし、
中には泣き出してしまう人もいます。

この壁を超えられないまま
彼のもとから去って行った人は、

「和佐大輔は凄いかもしれないけど、ガチで冷たい人間だ」

「本当に掴み所のない扱い難い人間だ」

・・・

こんな苦手意識とネガティブな印象を持ち続けるかもしれません。

 

でも、僕は彼の本質を知っています。

先日彼が、自身のあるセミナーで、

「自分の思いを伝えないということは、
 誰のためにもならない」

というメッセージを伝えるために、
セミナー資料にこんなエピソードを綴っていたことを知りました。

 

余命一ヶ月

 

和佐大輔のセミナー資料より引用

三日ほど前に地元の同級生から電話がありました。

「白血病で余命1ヶ月って言われた。
 どう気持ちの整理をつけたらいいと思う?」

ほとんど何も答えられなかったから、
新幹線の中で考えました。

そしてメールを送ることにしました。

 

・・・

 

「○○へ。考えたけど、
電話やと上手く言えんと思うき文章にするわ。
ごちゃごちゃ考えても頭が整理できんと思うき、
ノートに書いたらいい。

べたやけど日記とかも。

抗がん剤治療が始まったら
意識がはっきりせんようになるかもしれんき、
いまのうちに。

で、他人事やき言えるって思うかもしれんけど、
死ぬってことを前提に考えたほうがいいで。

変に期待したらいかん。

手術が成功して治ったら
ラッキーやと思わんと、ちゃんと死ねんぞ。

言い残したいことは全部吐き出して。

親とか奥さんとか子供とか友達とか、
面とむかって言えんやったら手紙を書いたらいいき。

とにかく、何も残さず、
何も言わずには死ぬなよ!

事故で即死ってわけじゃないがやき。

まだ時間はあるき。

死ぬならちゃんと死ぬ。

生きれたら超ラッキーや。

その時は最高の人生がまた始まるき。絶対に!」

 

・・・

 

これを読んだ時、僕は

「ああ、こいつの”優しさ”には、学ぶ価値がある」

瞬間的にこう思いました。

普段よく聞こえてくる一見無機質な彼の言葉。

 

例えば、

「ビジネスで成功するとか言いながら
人を巻き込む覚悟を決められないんなら
さっさとやめた方がいい。迷惑だから。」

とか、

「家族のために生きたい
自分の人生を犠牲にしてる・・・
なんて言ってるようなら、
さっさと離婚した方がお互いのため。」

とか

「・・・うんうん、なるほど。
でも結局、全部エゴですよね。」

とか。

「明日生きていることが当然」

の感覚で生きてる多くの人にとっては、
ただ厳しく、ただ冷たく感じてしまいがちな彼の言葉も、

「明日死んでもおかしくない」

人にとってはこれほど力強く、心強く、優しく響く言葉はないと思います。

 

少しだけ「死」について考えるようになってから、
改めて彼の言葉の数々を噛み砕いてみると、
十分ではないかもしれないけど、

少なくとも以前よりは、
僕にもそれがわかるようになりました。

いたずらに涙を誘うような、
押しつけがましい加工された優しさではなくて、
きわめてナチュラルな、まるで原石のような状態のもの。

原石なわけだから、
そのまま渡されても、
中身の価値に直接触れる事はできないし、
それが価値なのだと気付くことも難しい。

未成熟な人が
下手にそれを渡されると、
火傷で終わってしまう。

 

でも

“そこにこそ”

“優しさの本質”が宿っているような気がするんです。

“それだからこそ”

見えてくる、本当の優しさの在り方があると思うんです。

彼の在り方は、『本当の優しさとは何か』ということを考えるキッカケとして、確かに、僕の中で大きく貢献してくれています。

 

死と優しさ

 

優しさって何でしょう。

何を以て「優しい」というのでしょう。

「本当の優しさ」とは何なんでしょう。

「優しさ」の定義は人それぞれですが、
僕が今思う「本当の優しさ」は、こうです。

 

今のその人にとって、
本当に必要なモノを提供しようとする思いからくる行動。

・・・

わかるように説明するのですが、
先ず知ってほしいのは、

自分が欲しいと思っているモノと、
自分に本当に必要なモノは違う

ということです。

 

例えば、多くの人は、
多額の現金が欲しいと思っていますが、
でもその人たちにとって本当に必要なのは、

多額の現金ではなくて、
“多額の現金を稼ぐ力”の方です。

たとえば、宝くじが当選することは
まったく必要ではないのです。

 

また、多くの男は、
女生とのSEXを手に入れたいと
思っているわけですが、

彼等に本当に必要なのは
ただのSEXではなく、
「多くのSEXを”手に入れられる”魅力」の方です。

「風俗に行け」という話ではありません。

多くの人は、自分が「感情的に」
欲しいと思っているモノを貰った時、
くれた人に対して「この人は優しい」と思ってしまいます。

 

でも、本当の優しさというのは、

“今のその人にとって
本当に必要だと思われるモノを提供すること”

だと思うんです。

 

小さな子供は、
短期的にしか物事を考えられません。

今欲しいと思っているモノが
手に入らないとなると、
途端に癇癪を起こし出します。

 

でも、
目の前の子供を叱ってでも、
一時的に恨まれてでも、

その子にとって本当に
必要な学びを提供することが、
親の子に対する優しさだと思います

(ちなみにこれを「しつけ」といいます)。

 

相手が今欲しいと思っているモノではなく、
今の相手にとって本当に必要なモノを提供する。

そのためには、
相手を短期的に傷つけてしまう事を
避けられない時もあるし、

薬を嫌がる子供に、
薬を混ぜたジュースを
しれっと飲ませるような真似を
しなければならない時もある。

 

最初に欲しいモノから渡して、
徐々に必要なモノを理解させて、
最終的にそれに気づいてもらう、
という面倒なプロセスを踏まなければならない時もある。

相手に好かれる事を考えるあまり、
相手に嫌われたくないという思いを
優先するあまり、

相手をその場だけ気持ち良くさせるような、
いわゆる「エゴ」は優しさではないと思うし、
わかり易さを追求するあまり、
相手の考える力を奪ってしまうような、

相手を馬鹿にしてしまうような伝え方は
優しさとは言わないと思います
(後者は自分で言っていて耳が痛い)。

 

本当の優しさは、短期的な視点では提供できないもの

 

だと思います。

「明日も生きている」事を
当然であるかのような感覚で生きてる人間が、
本当の優しさを理解するのは難しいと思います。

逆に、「明日死ぬかもしれない」人というのは、
今の自分に本当に必要なものを理解している状態、

理解せざるを得ない状況に
いるのだと言えるのではないでしょうか。

常に「死」について想いを馳せる(馳せられる)

 

このひと手間を、「生きる」という営みの
一つのスタンスとして持っている人も
また同じだと思います。

和佐大輔の言葉が冷たく、
残酷に感じてしまう人と、有難く、
これ以上ないほど優しく感じてしまう人との差は、
これであるかのように思えてなりません。

 

相手が欲しがっているモノを
想像するのは難しくないと思います。

聞けばスグにわかることですから。

 

一方で、相手にとって本当に必要なモノは何なのか。

これを理解するのは簡単ではないと思います。

当の本人にもわからないことだからです。

 

だから、どんなに自分が
「こいつに必要なものはこれだ」と思っていても、
本当は違うかもしれない。

この可能性を
ゼロにすることはできません。

だけども、それでも、ボクらは
それについて考えることを
やめてはいけないと思うんです。

 

自分に関わってくれる人を理解しようとする気持ち。

しかし完璧には理解できないという現実。

このジレンマの中で、
それでも、その距離を縮めるために、
相手の事を考えるのをやめないということ。

その結果出した結論としての言葉や態度。

これを恐れずにちゃんと届けること。

 

その結果、それが相手に本当に
必要なものではなかったとしても、
真剣に考えた上でひり出された
その精一杯の優しさは、必ずどこかで生きますよ。

お互いにとってプラスの価値として残ると思います。

ここに一つ、人間の価値を
決定づける重要なヒントがあるように思うんです。

本当に大切な人、
愛する人に対しては皆、
それが出来ているはずでしょう。

和佐大輔は、
人よりも死ぬ確率が高いかもしれない。

でも、今元気に生きている人間でも、
交通事故に遭って、一撃で、一瞬で
死ぬ事はあります。

突然余名宣告され、
3ヶ月後に死ぬ事だってあります。

そういう残酷な可能性が、
僕にも、あなたにも、誰にも、
平等に与えられているんですよ。

今現在、抗うことができない明確な死期に
向かって日々を送っているような人が、
この世の中に一定数いるのはわかります。

そういう人たちからすると、
今元気な僕がいくら何を言っても
軽いかもしれないけど、

彼らがとても大変な状況
に置かれているということは理解できます。

でも、

 

今健康で元気な人も、未来はわかりません。

 

状況的に死ぬ確率が高い大輔は
今のところ元気に生きています
(し、奴を見ていると、
長生きしそうな気がしてなりません苦笑)。

だけども、五体満足、心身健康で
生きてきた人間が明日死んでる、
なんてことは世界中の至る所で起こっているんです。

そんな風に考えてみると、
死ぬ可能性なんて誰もが同じように
持っているものなんじゃないかと思うんです。

誰もが持つ「死」の可能性の中で、
同じステージの上で、ボクらは日々を生きているんです。

じゃあ、その中で「強い」のは一体どいつだ?

ということを考えてみてください。

常に、日々、「死」について考えられる、
正しく向き合える事のできる人間が強いに決まっている

とは思いませんか?

本当の優しさを備えている人間は強い

とは思いませんか?

 

自分の大切な人たちにとって、
本当に必要なモノは何なのか?

自分は、誰に、何を伝えたいのか?

何を残したいのか?

「明日生きてる」なんてことが当然の人間に、
この発想はなかなか生まれにくいのではないでしょうか。

 

死を想うことができるからこそ、
生きている「今ここ」を精一杯
生きられるのだと思うんです。

「死を想う」なんて言うと、
とても抽象度が高く、
哲学的な話に聞こえるかもしれません。

また、「絶望」という言葉が
真っ先に頭に浮かぶかもしれませんが、
誤解してほしくはありません。

 

死を想えるからこそ、今ある「生」を真剣に考える事ができる

 

ということは、
今を生きている誰にとっても重要で、
若者も年配者も同じ、常に忘れて欲しくない、
忘れてはいけない概念です。

たとえば、「美しい死に様」を望んでいるとします。

その美しい最期を迎えるためには、
自分にとっての「美しい生き様は何か?」
ということを日々考えなければなりません。

そして、それができたなら、
最期の瞬間まで、前のめりで
精一杯生きる事に全力を注げると思うし、

本当の優しさというものを、
きわめて自然な状態で、
当然の感覚として、
かかわってくれる人に
提供し続けることができると思います。

今まさに死に直面している人の
“精一杯”に、いつ死が訪れるかわからない
ボクらが敵う道理はありません。

 

だけど、

死を思うことで、
死に向き合うことで生まれる「生」へのエネルギー

は、きっとボクらに
最大限の希望をもたらしてくれるはずです。

 

なにも和佐大輔は超人ではありません。

彼自身、完璧というわけではまったくありません。

こんなことを勝手に言うと
彼に怒られてしまうかもしれませんが、
年上の人間として無性に鉄拳制裁を伴う
「指導」をしてやりたくなる瞬間もあるし、
嫌になる事も、腹が立つ事もあります(笑)。

でも、彼の、時に威圧的で、
時に我儘で、時に人を食ったようなスタイルは、
もう仕方がないと思っています(苦笑)。

それは、彼自身が、
この世の中で力強く生きていくために
身に付けた処世術なんです。

だから、そんな表面的な部分を観察するよりも、
彼の持つ優しさの本質(原石)から何かを学ぶ方が、
何倍も価値があると思っています。

それは、彼だからこそ
今の世の中に提供することができる
ギフトだと思うからです。

今彼と関わっている人、また、
これから先彼と関わろうとする人は、
そこのところを踏まえて和佐大輔という人間を
みることで、凄く良い事が起こるんじゃないかと思いますよ。

 

「死んだら終わりや」

 

ここまでの話に関連していると思ったので
前に、地元福岡のビジネス仲間と飲んでいる時に
聞いた興味深いエピソードをシェアします。

50年もの間、
共に生きてきた幼なじみが突然死んだ

という話でした。

悲報を受けてスグに向かった病院で
案内された薄暗い霊安室。

そこで、50年もの間
苦楽を共にしてきた幼馴染の死に顔を見た時、
瞬間的に彼が思ったことは・・・

「ありがとうな」でもなく、

「がんばったなぁ」でもなく、

「お疲れさん」でもなく、

「安らかに眠れや」でもなく・・・

 

「ああ、死んだら終わりや」

 

・・・だったそうですよ。

幼馴染を失った悲しみは、
現実のものとして後からじわじわと
沸いて来たのだと思いますが、

ただ、共に学び、遊び、語り、感じ、
歩んできた人間が、ほんの数ヶ月前に
酒を酌み交わした人間が目の前で死んでる姿。

硬直と変色で変わり果てた、
抜け殻になった友の姿。

これを目の当たりにした、
これ以上無い程の虚無に襲われた彼が
瞬間的に思った言葉が、これだったそうです。

正直、見ていて情けない気持ちになったそうです。

「明日は我が身だ」
と強く感じたそうです。

もちろん、幼馴染の友人が
残したものはあったはずです。

 

それをしっかり受け取って、
一生持ち続けて生きていこう、
彼の分まで生きよう、
という思いもあったはずだし、
その誓いも立てたはずです。

 

でも、

死んだら「自分は」終わり

これを強く感じたのだそうです。

 

この話を聞いてから後、
顔を合わせる度に彼は、

「死んだら終わり」

この言葉を繰り返しています。

喜びを分かち合うことが出来るのも、
喧嘩が出来るのも、悩み苦しむことが出来るのも、
働くことが出来るのも、チャレンジが出来るのも、
夢を見ることが出来るのも、

自分自身が生きているからこそ

です。

 

ボクらは、生きていて
ナンボなんじゃないんですか?

ボクらが、「ボクらとして」
生きられる人生は、一度しかないんじゃないんですか?

 

「な、わかったか。
 ほら、死んだら終わりなんだよ。

 だからお前らは、終わるまでは日々を精一杯生きろや。
 やれることは全部やれ。
 悔いの残らないように、全部だ。」

 

彼が、幼馴染の死から
受け取ったものは沢山あったと思いますが、
こんな風な暗黙のメッセージもその中の一つで、

これをきちんと受け取り、
そして重く受け止めたんだろうな、と。

彼を見ていて僕はそう感じました。

 

僕にはまだ幼馴染を失った経験は無いし、
幸せなことに両親もまだ健在です。

爺ちゃんや婆ちゃんは
逝ってしまったけど、当時は、
ただひたすらに悲しい気持ちだけでした。

 

でも、だからこそ今、
大切な人を失う前に、
あるいは自分が死ぬ前に、
「死」というものについて真剣に考えたいと強く思うんです。

そして、そこから「自分として」
生きるということに対して、
真剣に向き合いたいと思うんです。

いつか然るべき順番が来た時、
ちゃんと終わらせられるように、
自分にとって美しい”生”を送る事に
全力を尽くしたいと思うんです。

 

「この苦しみや辛さや痛みは、所詮あなたにはわからないよ。
 誰も自分の事は本当は理解できないんだよ。」

 

こんな事を言う人は、
やっぱり後を絶ちませんが、知るか、と。

「あなたではない」僕に100%、
ただ一つだけわかるのは、
これを読んでいるあなたが、
「今生きている」ということだけです。

 

この事実を理解している人が
いる事こそ真剣に考えるべきではないでしょうか。

苦しみだろうが何だろうが、
誰にもわからないナニカを持っているからこそ、
あなたは「あなた」なんじゃないんですか?

それが、「あなた」という
一人の人間として生きている証
なんじゃないんですか?

僕としては、むしろ喜べ、と言いたいくらいです。

 

「今生きている」という事実を、
ボクらはもっと自覚する努力を
しなければいけないと思うんです。

中には、こういうメッセージがとても、
とても重く、息苦しく感じる人もいるかもしれない。

 

「私はもっと、ゆるぅく生きたいのよ」
「私はそんなに、頑張りたくないのよ」

それこそ知るか、です。

ゆるぅく生きる。

頑張らずに生きる。

いいと思います。

 

僕もどちらかというと、
そっち側の人間かもしれません。

だけど甘えるな、と。
勘違いするなよ、と。

ゆるぅく生きたいのなら、
頑張りたくないのなら、
そういう生き方を一つの”在り方”として
「自分で」定義して欲しいと思います。

そして、それを世に示して欲しいと思います。

周りに認めさせて欲しいと思います。

伝えて欲しいと思います。

残して欲しいと思います。

そのためには、

 

「自分を」全力で体現しないといけない

 

と思うんです。

それをせずに駄々をこねてるような奴は、
ただの子供です。大人じゃあない。

「生きたい自分の人生を生きよう」
「小っちゃな世界でいい、ヒーローになろう」

僕のメッセージの本質を、
今回の話から汲み取って欲しいと思います。

 

では、最後です。

繰り返しになりますが、
「死」を想う時間は、同時に、
「生きる」と言う事について真剣に考える、
特別なキッカケでもあるのだということを
今一度、考えてみてください。

わかって欲しいんです。

死について考えれば考える程、
「今ここ」を大事に思えるんです。

周りにいる人を大事に思えるんです。

自分自身を大事に思えるんです。

もっと伝えなきゃいけないと思えるようになるんです。

自分が生きている証を残さなければいけないと思えるようになるんです。

 

本気で。

 

あなたの大切な人は誰ですか?

それは何人くらいいますか?

これからの人生で、
あなたがその人と会う回数は
あと何回くらいですか?

一緒に居られる時間は
あと何時間くらいですか?

あなたが後50年生きるとして、
年に2回、1回につき5時間
その人と一緒に居たとすると、
あと100回しか会えません。

500時間しか
共に時間を過ごすことができません。

日数にしてわずか20日です。

あなたの大切な人が
あなたよりも長く生きているなら、
もっと少なく見積もる必要があるでしょう。

少しだけ時間を割いて、
真剣に考えてみてください。

 

これを考えた時に沸いてくる焦燥感も、
「死を想う」ということの一つの形だと言えると思います。

今回の話がいまいちピンと来なかったのなら、
こういう理解の仕方でも構いません。

「明日死ぬつもりで生きろ」

という言葉が流行っていると思います。

誰が最初に言ったのかはわかりませんが、
今回の話を踏まえて、

僕は僕で、僕の”オリジナル”として、
改めてここに残しておきたいと思います。

「明日死ぬつもりで、今ここを生きろ」

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

 

 

この記事を書いている人 - WRITER -
アバター

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)

Copyright© HQ-LIBRARY , 2020 All Rights Reserved.