死と優しさと今ここと
本文より一部抜粋
優しさって何でしょう。何を以て「優しい」というのでしょう。「本当の優しさ」とは何なんでしょう。「優しさ」の定義は人それぞれですが、僕が今思う「本当の優しさ」は、こうです。
今のその人にとって、本当に必要なモノを提供しようとする思いからくる行動。
・・・わかるように説明するのですが、先ず知ってほしいのは、
自分が欲しいと思っているモノと、自分に本当に必要なモノは違う
ということです。
例えば、多くの人は、多額の現金が欲しいと思っていますが、でもその人たちにとって本当に必要なのは、多額の現金ではなくて、“多額の現金を稼ぐ力”の方です。たとえば、宝くじが当選することはまったく必要ではないのです。また、多くの男は、女生とのSEXを手に入れたいと思っているわけですが、彼等に本当に必要なのはただのSEXではなく、「多くのSEXを“手に入れられる”魅力」の方です。「風俗に行け」という話ではありません。
多くの人は、自分が「感情的に」欲しいと思っているモノを貰った時、くれた人に対して「この人は優しい」と思ってしまいます。でも、本当の優しさというのは、“今のその人にとって本当に必要だと思われるモノを提供すること”だと思うんです。
小さな子供は、短期的にしか物事を考えられません。今欲しいと思っているモノが手に入らないとなると、途端に癇癪を起こし出します。でも、目の前の子供を叱ってでも、一時的に恨まれてでも、その子にとって本当に必要な学びを提供することが、親の子に対する優しさだと思います(ちなみにこれを「しつけ」といいます)。
相手が今欲しいと思っているモノではなく、今の相手にとって本当に必要なモノを提供する。
そのためには、相手を短期的に傷つけてしまう事を避けられない時もあるし、薬を嫌がる子供に、薬を混ぜたジュースをしれっと飲ませるような真似をしなければならない時もある。最初に欲しいモノから渡して、徐々に必要なモノを理解させて、最終的にそれに気づいてもらう、という面倒なプロセスを踏まなければならない時もある。
相手に好かれる事を考えるあまり、相手に嫌われたくないという思いを優先するあまり、相手をその場だけ気持ち良くさせるような、いわゆる「エゴ」は優しさではないと思うし、わかり易さを追求するあまり、相手の考える力を奪ってしまうような、相手を馬鹿にしてしまうような伝え方は優しさとは言わないと思います(後者は自分で言っていて耳が痛い)。
本当の優しさは、短期的な視点では提供できないもの
だと思います。
「明日も生きている」事を当然であるかのような感覚で生きてる人間が、本当の優しさを理解するのは難しいと思います。逆に、「明日死ぬかもしれない」人というのは、今の自分に本当に必要なものを理解している状態、理解せざるを得ない状況にいるのだと言えるのではないでしょうか。
常に「死」について想いを馳せる(馳せられる)
このひと手間を、「生きる」という営みの一つのスタンスとして持っている人もまた同じだと思います。